「あの人は普通やないで」と言われました。
それは別に否定や非難の意味ではなく、客観的に見て、僕はそういう評価だそうです。
先日、妹の家族が我が家へ遊びに来てくれたのですが、僕の妻と
「世の一般男性の感覚ってどんなのだろう?」
という話になって、そんな会話が出たのだそうです。
逆に、妹の旦那さんの行動や感覚を見て、妻は驚いたそうです。
「うちの旦那と全然違う!」という風に。
なので僕も、妹や妹の旦那さんの行動や感覚を見て、「え? そうなの?」「普通やないで!」と思ってしまいます。
どうやら、人はそれぞれに行動基準や価値観が違い、“普通”の基準が全く違うようなのです……。
自分の“普通”は実は普通じゃない
ブログをご覧いただきありがとうございます! 「農マドワーカー」の泉林です(^^)
大阪の郊外で無農薬・無肥料のお米づくりをしながら、ネット関連のお仕事をさせていただいています。
この肩書きや働き方でも「普通じゃない」と思われるかもしれません。
でも、これって自分の中では「普通」だったりするんですよね……。今まで何か特別なことをしようと思ったわけではなく、自分の自然にできることをコツコツとこなしていたら、こんなライフスタイルになりました。
だから実は、自分が心地よい生活を送ろうと送ったら、“何か特別なこと”をするのではなく、自分にとって“普通”のことを淡々と突き詰めるのが一番良いのかもしれません。
冒頭のエピソードでもわかる通り、自分にとっての“普通”は他の人にとっては全然普通ではなく、むしろ“特別”に映ることが多いわけですから。僕の場合は、ちょっぴり「変人」という評価を受けちゃったみたいですけど、それはそれで個人的に嬉しかったりします。
人は生まれながらに違う
今回、妹家族が我が家へ遊びに来てくれたのですが、一番印象的だったのは、お互いの子どもの性格や行動パターンでした。
我が家の娘は3才、妹夫婦の娘さんは1才で、「あー。こんな小さい時もあったなー♪」と微笑ましく見ていました。
ですが、見ていると、うちの娘の1才の頃と全然動き方が違うのです。
我が娘が歩き始めたのは1才半頃でしたが、妹の娘さんは1才少しでどんどん歩いています。恐れることなく好奇心のまま突き進む感じです。でも、うちの娘が歩き始めた頃は、そこまで能動的ではなく、「好きなものがあったらそこへ向かって歩くけれど、それ以外はじっとしてたい」という感じでした。
また、泣くときにも違いがあって、うちの娘は悲しいことや叱られることがあると、感情をあらわにして思いっきり泣きます。けれど、妹の娘さんは、グッと我慢して悲しみや怒りをこらえ、とても悔しそうに涙を流すのだそうです。
まだ1才を過ぎたばかりですが、これだけの違いがある。
「人って、生まれながらに持っているものが違うんだなぁ」
と改めて感じた瞬間でした。
相手の“普通”は自分の“特別”
そしてそして、そんな人間の持つ違いをもっと感じたのは、妹の旦那さんの感覚や行動でした。というか、これは僕が直接見たのではなく、妻が見たことなのですが、以下のような違いがあったそうです。
家での楽しみ方
- 妹の旦那さん→テレビを見る(結構、長い時間見るらしい)
- 僕→世間の情報を収集したり勉強したり。そしてブログを書いたり
休日の過ごし方
- 妹の旦那さん→家に友達が来て一緒に過ごす
- 僕→ひとりが大好き
ショッピングセンターの楽しみ方
- 妹の旦那さん→色んなお店を見て回って、新しいファッションを買う(ウィンドウショッピングを含む)
- 僕→ファッションに興味なし。カフェでぼーっとするのが好き
という感じで、「別の生き物か?!」と言わんばかりの違いが見えたのです。
たぶん、僕はこんな風に文章を書いて表現するのが大好きなんですが、妹の旦那さんはこういうブログには全然興味ないんだろうなー、と思います。
なので、本当に本当に、好きなことや行動基準や価値観が全然違うということなんです。
自分にとって“普通”のことであっても、他の人から見たら“特別”。これが人間というものなのかもしれません。
他の人と比較して「自分はダメだ」と思ってしまう時のアドバイスとして、動物の例えが使われることがあります。
- 鳥が魚のことを見て羨ましいなんて思わないでしょ?
- 逆に、魚が鳥のことを羨ましがって、鳥のようになろうとするのはおかしいでしょ?
- 鳥は「空を飛べる」という特性があって、魚は「水を泳げる」という特性がある。だから、それぞれの特性を伸ばすことがいいんだ。
- それは人も同じで、自分の持っている特性を伸ばせばいいんだ。
という風に。
動物のように見た目が全く違って、わかりやすいと良いんですけどね……。人間は見た目が似ているので違いに気づきにくいです(^^;
自分の“普通”を突き詰める
となってくると、少し最初の話に戻るのですが、自分の“普通”を突き詰めることが幸せに繋がる道なのかもしれません。
僕の“好きなこと”は他の人にとって“面倒くさいこと”らしい(WordPressの立ち上げとかカスタマイズとか)。
だから、仕事をさせていただける。『好きを仕事にする』というのは自分の“好き”を追求するだけではダメで、それを必要とする“他人”がいて初めて成立する。
— ばや@農マドワーカー (@shbayashi) 2017年11月19日
こんなツイートをしたこともあるのですが、以前の僕は、
「自分の好きなことは他の人にとっても好きなことで、自分と同じように当たり前にできるはずだ」
と思い込んでいました。
ですが、実際に色々な方と出会い触れ合ってみると、そうではないことに気づいたのです。
自分にとって“普通”だと思っていたことが、他人にとっては全然“普通”ではなく、むしろ“特別”なものとして映ることが多かったのです。
これは逆のことも言えて、他の人が当たり前に普通にできることが、僕にとっては“特別”だったりします。
先ほどの妹の旦那さんとの違いもそうですし、いま一緒にお仕事させていただいたいる方を見ていてもそう感じます。僕の苦手なことを、さも当たり前にこなして下さったりするのです。
こんな風に見ていると、
「そうかー。何か“特別”なものになろうとする必要はないんだな」
と思います。
“特別”にならなくてもいい
以前の自分は何か“特別な存在”になろうと頑張っていました。
例えて言うのであれば、テレビアニメのヒーローとか救世主みたいな感じです。「特別な能力を持って、特別な存在になって、たくさんの人々の役に立つんだ!」みたいな。
けれど、それは違ったのです。
そうやって“特別”になろうとすると、逆に自分の本当の良さが失われてしまいます。
他の人から見れば自分が普通にできることが“特別”なことなのに、自分の“普通”を捨てて“特別”になろうとすれば、逆効果になってしまうのです。
だから、今の自分が当たり前にできる“普通”のことを磨いて、コツコツと日々取り組むことが大事だと思うのです。
たしか「特別な存在になりたい!」「世界を救いたい!」みたいに考えてしまうことを、アドラー心理学では『メサイアコンプレックス』と呼ぶそうですね。ありのままの自分を肯定することができないため、自分を特別視して自己肯定感を高めようとする状態。このコンプレックスから抜け出すことが第一歩なのかなー、と思ったりします。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
長々と書いてしまいましたが、要点をまとめると……
- 人は生まれながらに異なる特性を持っている
- だから、自分が“普通”だと思っていることは他人にとっては“特別”
- 誰かの役に立とうと思ったら“特別”なことをする必要はなく、自分の“普通”を突き詰めればいい
ということになります。
ただ、こうやって自分と他人の違いを腑に落とすために、色んな人に出会い交流することは大切ですよね。
それがないと、「あ。自分が当たり前にできることは、他の人にとって特別なことなんだ!」と実感できないですから。
今の時代はインターネットがあるので、いつでもどこでも人と交流することができます。現代の文明を活用して、自分の特性を知っていけるといいですね!!