「月読命って、何でこんなに登場回数が少ないんだ?」
長年、こんな疑問を抱いていました。
「月読命(ツクヨミノミコト)」というのは、古事記や日本書紀などの日本神話に登場する月の神様です。ですが、古事記では一度登場したっきり、その後の活躍がほとんど無いのです(というか皆無?)
日本書紀では、古事記よりもちょっぴり活躍しているそうですが、それでも太陽神の天照大御神(アマテラスオオミカミ)や、兄弟の素盞嗚尊(スサノオノミコト)に比べると、めっちゃ控えめ。月ってかなり大切な存在のはずなのに、全然目立ってないのです。
「月の神様なのに、何でこんな影が薄いんだーーー?!?!」
と、日本神話に少しばかり興味がある僕は、ずっとずっと疑問を抱いていたのです。
ですが最近になって、「あれ? もしかしてこんな秘密があったんじゃない?」ということを思いついたので、それを書いていきたいと思います。
あくまでも個人的な解釈になりますが、月読命の謎に迫ります!!
日本人にとって月は大切
まず、月読命について考えていくに当たって、この記事の中での前提を記しておきたいと思います。“前提”とは何かと言うと、
「日本人にとって、月はとても大切だった」
ということです。
昔、江戸時代までの日本は太陰暦を使用していました。「太陰暦」というのは、月の巡りによって月日の流れを把握するものですね。明治に入ってからは現在の太陽暦(太陽の巡りを基準とする暦)が採用されましたが、それまでは月を基準としていたのです。
特に農業では太陰暦が重要視されました。僕も農家の端くれなので、作物の栽培で月を重視する考え方を知っています。月の引力は潮の満ち引きに影響しますが、それと同じように、植物の水分に影響を及ぼします。ですので、「種まきは新月のときが良い」とか「収穫は満月の時に」と言われたりするのです。
日本人の多くは農耕に従事していたので、月の動きというのはとても大切だったはずなのです。
ですから、月を司る神様である月読命(ツクヨミノミコト)が軽んじられたとは考えにくいのです。
実際に祀られている神社
現に神宮のある伊勢には、月読命を祀る神社が2つあります。
- 内宮の別宮である「月讀宮」
- 外宮の別宮である「月夜見宮」
そして、前者の月讀宮については、
最高神天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神の月讀尊が祭神であることから、内宮別宮としては天照大神の魂を祭神とする荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮である。
Wikipedia「月讀宮」より引用
後者の月夜見宮については、
外宮の別宮の中では唯一の宮域外にある神社である。伊勢市街地にありながら、境内は静けさが保たれている。
Wikipedia「月夜見宮」より引用
という風に、どちらも特別な扱いをされています。
こういった経緯から見ても、月読命が軽んじられた神様であったとは考えにくいのです。
「月読命」の読み方は、「ツクヨミノミコト」だったり「ツキヨミノミコト」だったり両方使われています。また、漢字表記も「月夜見尊」とされることもあります。ですが、この記事では、「月読命」(ツクヨミノミコト)と統一して書かせていただきました。
先ほど「伊勢で2つもお宮があるから」と書かせていただきましたが、調べてみたところ、月読命を祀られている神社はこの他に、京都の月読神社など数社しかないようです。一般的に有名な神様は多くの神社で祀られるので、この観点から見ると、月読命はあまり大切にされていなかったと解釈できるかもしれません。ただ、日本の神社の中心地とも言える伊勢に2社もあることから、この記事では「月読命は大切な神様だった」と解釈して進むことにします。
月読命が日本神話に登場しない理由
では、大切であるはずの月の神様が、日本神話でほとんど活躍しないのはどうしてなのでしょうか? ここには2つの可能性が考えられます。
- 月読命は本当はもっと登場していたのに、記載が削除されてしまったから
- 月読命は裏方に徹する神様だったから
①については、書籍かブログで読んだことがあります。記憶があやふやなので出典を記載できないのですが、「元々あった月読命の登場箇所を、後の時代になって消去した」という説ですね。
少しばかり陰謀論的な匂いが漂いますが、これは非常に納得です。書物というのものは……特に神話のように多くの人に知られるようなものは、時の権力者の都合によって改ざんされます。その権力者が都合の良いように物語を書き換えて、人々に支配や権力の根拠を提示するわけです。
実際、古事記も日本書紀も「天皇家は太陽神である天照大御神の末裔」ということを軸に成り立っており、天皇家の権威や正統性を知らしめる役割を果たしています。
(これは、「どういう意図で作られたのか?」は置いておき、「そういう効果があったよね」という結果論での話です)
ですので、仮に元々は月読命の記載が多かったとしても、長い日本の歴史の中で、その記載が削除されてしまった可能性は大いに考えられます。
ただし、その根拠を僕は知らないですし、正否は歴史学者などの専門家さんに譲るしかないので、ここでは議論しません。
それよりも、ここで採用したいのは②の解釈です。
月読命は裏方専門?
「月読命は裏方に徹していた」
この解釈はあまり見られないかもしれません。それもそのはず。これは僕が思いついたものですから( ̄▽ ̄)
ですが、この解釈で考えてみると、日本神話が興味深く楽しいものになり、「月読命が実は活躍していたのでは?」ということが見えてくるのです。
どういうことなのか? 次から詳しく見ていきます。
“光”を際立たせるには“影”が必要
月読命は、兄弟神である天照大御神、素盞嗚尊(スサノオノミコト)と共に伊弉諾尊(イザナギノミコト)から生まれました。古事記においては、天照大御神は天の世界を、素盞嗚尊は海原を、そして月読命は夜を統べる神様とされ、この3柱を合わせて「三貴子」と呼んだりもします。
ですが、今までお伝えしてきたように、月読命の影はかなり薄め……。姉である天照大御神と、弟の素盞嗚尊がめちゃくちゃ目立って活躍しているのに、月読命は息を潜めているかのように登場しないのです。
それはまるで光と影のよう。天照大御神と素盞嗚尊が“光”だとしたら、月読命はまさしく“影”なのです。
けれど、ここまで考えたとき、はたと気づきました。
「そりゃあ、“光”が活躍するためには、“影”って絶対必要だよね?」
ということに。
これは神話の世界だけではなく、現実社会を見てもわかります。
例えば政治家や大企業社長のように、ニュースに登場して多くの人の注目を浴びる人たち。彼らは“光”の当たる存在だと言えますが、その“影”には人知れず活躍している人たちがいるわけです。それは秘書という役職だったり、参謀だったり、あるいは“裏の権力者”というような人たちかも知れません。
つまり、“光”である人たちが活躍している裏には、必ず“影”の存在がある。そして、その“影”の人たちは、決して評価されないし歴史に名前も残らないけれど、確実に社会を動かしている……ということです。
「月読命ってもしかしたら、裏で世界を動かす“影”の存在だったんじゃ……」
そんな風に思い至ったのです。
月だからこそ裏で動いていた?
とはいえ、これには全く根拠はなく、あくまでも僕の推測です(というか、妄想です( ̄▽ ̄))。
でも、こうやって読んでいくと、けっこう納得がいくんですよね。
というか、そもそも“月”というのはそういう存在です。昼間はほとんど目立たず、太陽の影に隠れています。そして、夜になって人々が寝静まる時間に、ひっそりと地球を照らすわけです。
けれど、月の影響というのは非常に大きくて、潮の満ち引きや植物の成長を左右します。「赤ちゃんが生まれるのは満月の日が多い」と言われるように、人間にも影響を与えていますよね。
そんな風に、決して目立たないけれど、見えないところで大きな影響力を持っているのが“月”という存在なわけです。
「あ。だったら、神話に書かれていないというのは、“月”をそのまま表現してるじゃん!」
と僕は思いました。
“太陽”である天照大御神が活躍すればするほど、“月”である月読命は目立たなくなってしまうという構図は、まさに自然界の月と同じなのです。
そして、こうやって考えていくと、こんな解釈が成り立ちます。
「月読命は単に“書かれていない”だけで、実は見えないところで大活躍していたのではないか?」
そう。「神話に登場しない」=「活躍しなかった」ではないわけです。もしかしたら、文章に表現されていないだけで、“影”で暗躍していた可能性があるのです。
天岩戸神話を段取りしたのは月読命?!
その可能性を見て取れるのが、「天岩戸神話」です。
「天岩戸神話」というのは、天照大御神が精神的なショックを受け、洞窟に閉じこもるところから始まるエピソードです。
太陽神がいなくなったため世界全体が真っ暗になり、慌てふためいた神様たち。けれど、様々な策略や工夫をこらし、最後には天照大御神を外へ連れ出すことに成功する、というものです。
ですが、ここで疑問が起こります。
「ん? 天照大御神がいなくて真っ暗なはずなのに、他の神様たちはどうして話し合ったり行動したりできたの?」
太陽がなくなって闇に包まれているのであれば、他の神様と出会うこともできません。天岩戸神話の中では、神様はどんちゃん騒ぎを繰り広げるのですが、光が全くないところではそれは不可能なはずなのです。
「あ。もしかしたら、月明かりが照らしてたのかも!」
またしても個人的な妄想が炸裂しますが、天照大御神がいなくなったときに神様たちを照らしていたのは月だったかもしれないのです。
まあ、現実的に見れば、月は太陽の光を反射して輝くので、本当は月も真っ暗になるはず……。でも、ここは神話の世界ということで、月明かりの中で、神様たちは策を巡らしたのではないかと考えられるのです。
「ということは、天岩戸神話を裏で動かしていたのは月読命だったのかも!」
そんなことを考えました。
つまり、どういうことかと言うと……
- 「天岩戸神話」で裏のサポートをしていたのは月読命
- ひっそりと月明かりで照らすことで、他の神様たちが動けるようにしていた
- そのおかげで、天照大御神は外の世界へ出ることができた
- 「天岩戸神話」の主人公は一見すると天照大御神だが、影の立役者であり最大の功労者は実は月読命
という読み方ができるのです。
正直なところ、日本神話の他の部分は分析できていないのですが、でも、こんな風に「影に月読命がいた」という風に解釈すると、面白いものが見えてくるかもしれません。
月読命から生き方を学ぶ
……と、ここまで妄想全開で書いて来ましたが、異論や反論などは多々あることかと思います(^^;; あくまで個人的な解釈ですので、「こういう読み方もあるのかー」とあたたかく受け取っていただければ幸いです。
そうなんです。ここでお伝えしたいのは、「僕の解釈が正しいんです!」ということではなく、
- こういう読み方もできますよね?
- こんな風に解釈したら面白いかもしれません
という単なる提案です。
ですので、もし「面白い」と感じていただけたら、次に日本神話を読むときに取り入れていただけれ嬉しいです(^-^)
そして実は、「月読命は影で活躍していたけれど、単に書かれていないだけ」という考え方は、現実世界を生きる上でも役立つと思うのです。
現実世界にも“影”は必要
現実社会において、注目を浴びたり多くの評価を得られる人というのは、やはり少ないです。むしろ、ほとんどの人が歴史に名を残せずに死んでいきます。
ですが、その人たちの人生に意味がないのかというと全くそんなことはなくて、逆に大きな意味を持ちます。なぜならば、名もなき人が“影”にいなければ社会は動かず、歴史も変化していかないからです。“影”があるからこそ、“光”が生まれます。
だから、人からの注目や社会の評価がなくても、自分なりの役割を持って貫き通せば、それは素晴らしい生き方だと思います。
月読命は「三貴子」として重要な役割を持って生まれました。ですが、その活躍は日本神話の中ではほとんど描かれず、評価もされていません。けれど、今回のように「影で動いていた」と解釈すると、その意味や魅力を感じることができます。
- 物語の表には出てこない
- “光”が当たらず、じっと“影”の存在でい続ける
- けれど、裏で動くことにより、確実に世界を変化させている
そんな生き方の素晴らしさを伝えてくれている気がしてなりません。
少なくとも僕は、活躍する人の裏で動くことが好きなので、これからも“影”として生きていきたいと思います。
あなたの生き方にとっても、何かしらのヒントをご提供できれば幸いです。
※日本神話については、コチラの記事にも書いています↓

などを書かせていただいています。
(「農マド」と言いながら、農業やネット関係の記事は少なめです(^^;;)
あなたの人生にとってお役に立てる内容があるかもしれませんので、よかったらご覧ください。