「のんびり生きたい!」という気持ちが強いことに気づきました。
今まで努力や頑張ることが好きで、「他人や社会のために一生懸命 働くことが喜びだ」と思っていたのに、その気持ちの奥に「のんびりしたい」「ゆったりした暮らしがいい」という想いがあることに気づいたのです。
けれど実は、今まで努力や頑張りを続けてきたのも、のんびりするためだったんですよね……。
- いま頑張っておけば、あとがラクになる!(はず)
- 努力を重ねることで、未来はのんびりと働ける!(はず)
- 人に喜んでもらえば、お金がたくさん入って、その後ゆっくり過ごせる!(はず)
- 社会に貢献できれば、多くの人に認められて、ゆるゆる過ごしても文句言われなくなる!(はず)
という感じで。
今までの人生を振り返ると、努力や頑張りによって物事が上手くいくことが そこそこありました。
けれど、結局“そこそこ”なんです。
ある程度まで成果は出るけど、その先が続かない。続けられない。
なぜなら、根っこの動機が「のんびりしたい」だからです。
のんびりするために頑張っていたのに、ある程度の成果が出て そこから先へ進もうとすると、更に努力や頑張りが必要になってしまう……。
すると、「もうムリ!」「ゆっくりしたい!」となって継続できなくなるんです。
こうやって書くと自分が情けなくなりますが、過去を振り返ると このパターンを繰り返していたんだから仕方ありません。
ならば、このパターンを踏まえて次にどうすべきか? それを考えたいです。
というか、なんで情けなくなっちゃうんでしょうね?
そもそも、なんで努力や頑張りが必要と思っちゃったんでしょうね?
根っこが「のんびりしたい」という気持ちなら、素直にそのまま のんびり暮らせばいいのに。
これは私見ですが(というか、ずっと私見しか書いてないですが)、今の社会では「努力や頑張りが正義」とされていて、それを幼い頃から刷り込まれるからだと思います。
『アリとキリギリス』なんかが良い例ですね。
- コツコツと真面目に働き続けるアリは幸福に暮らせる
- 歌を歌ってのんびり過ごすだけのキリギリスは不幸になる
という風に、「遊んで怠けてはいけない」「努力こそが幸せへの道だ」という考えが垣間見えます。
けれど、これっておかしいんです。
もし歌を歌うだけのキリギリスが不幸で、食べ物が無くなって生きていけなくなるなら、とっくの昔に絶滅していなければなりません。
けれど、今もキリギリスは生きていますし、毎年 元気に鳴いています。
だから、「キリギリスの生き方が悪」というのは、人間の勝手なこじつけなんですよね。
(そもそも、虫が鳴くのは なわばりを守るためや求愛のためであって、怠けて遊んでるわけではなかったりしますが……)
それに、先日 動物と触れ合える遊園地に行ったのですが、そこのヒツジたちは地面の草をモシャモシャ食べながら のんびり過ごしていました。

もちろん、野生では外敵に襲われたら必死に逃げるのでしょうが、根っこの性質は“のんびり”だと思うのです。
そして、「のんびりすることがヒツジの幸せ」なのだと感じました。
けれど、現代の人間はどうでしょう?
なぜか「頑張ることが善」とされ、努力や向上に追い立てられているような気がします。
しかも、そういった考えを知らず知らずに植え付けられて、さも努力や頑張りが当然のことのように社会が回っているように思うのです。
もちろん、元々アリのような性質を持って生まれた人は、ずっとコツコツ努力し続けることが幸せだと思います。
けれど、そうではない人間もいる。
僕のように、「のんびりしたい」という気持ちを根っこに抱えている人間もいるのです。
(そしてたぶん、そういう人は結構 多いと思います)
でも、「努力や頑張りが正義」とされる現代社会の中では、それを素直に言い出せず、社会の考えに飲まれて自分に無理をさせていく……
そして、「のんびりしたい」という自分の本心を否定し、場合によっては自己嫌悪に陥ってしまうのではないかと思います。
ですから僕も、「のんびりしたい」という気持ちが根っこにありながら、社会に合わせるために その気持ちを押し隠し、努力や頑張りを続けて来たんだと思うんです。
もちろん努力や頑張りは良いことだし、今の社会で生きていくためには必要です。
けれど、それと同じくらいか それ以上に、「のんびりしたい」という気持ちも大事だと思います。
自分の中に「のんびりしたい」という気持ちが確かにあるのなら、その気持ちを肯定して大切に生きていけたらいいですよね。
この「のんびりしたい」気持ちと 社会での努力や頑張りをどう両立させていくかは まだ見えていませんが、他人や社会のためだけでなく自分の本心も素直に受け止めたいな、と感じています。