以前、よく口にしていた夢がありました。
- 空が青くて
- 鳥が飛んでいて
- 山々が青くて
- そこから穏やかな川が流れていて
- その周りに田んぼや畑があって
- その恵みを得ながら人々は生き
- 道端や広場には子どもたちの遊ぶ声が聞こえ
- キラキラと輝く太陽の下で
- 人も自然も、同じように輝いて生きている
そんな世界が100年後の未来も続いていること
という夢です。
多くの人から見れば、「それって夢なの?」と思われる夢かもしれません。
なぜなら、こういったものの全ては“当たり前”と呼ばれるものですから。
ですが、僕にとっては、今ある“当たり前”のものは決して当たり前ではなく、かけがえのない宝物だと思っていました。
だから、「この宝物を守りたい」と思っていました。
いま“当たり前”にある世界を、100年後の未来を生きる子どもたちに伝えたい
そんな風に思っていたんです。
ある意味、“現状維持”ということで“成長”も“変化”もなく、やはり「夢」とは呼べないことかもしれません。
それに、そもそも「自然を守る」とか「100年後の未来」とか、ボヤッとしすぎていますから・・・。
ですが、「いま目の前にあるものを守り続けること」。これを夢として考えたっていいのかな、と改めて感じています。
夢は無い方がいいと思った理由
ブログへのご来訪ありがとうございます! 「農マドワーカー」のいずばやしです。
このブログでは以前、「夢は持たない方がいい」という記事を書いたことがあります。

もちろん夢そのものを否定するわけではなく、「人によっては夢や目標があると動きにくくなりますよー」というものでした。
というか、僕自身が夢を持つと動きにくくなるタイプのため、自分の確認のために敢えて書いた記事でもありました。
ただ、理由はこれだけではなくて、僕がずっと抱いてきた夢が大きすぎたせいもあったかもしれません(^^;;
いま身近にあるものを守りたい
「ずっと抱いてきた夢」というのは、先ほど冒頭でご紹介したものです。
一言で言えば……
自然と人間が共生する世界が100年後の未来も続いていますように
という夢です。
「夢」というよりも「祈り」のようなものかもしれません。
それに、「成長」や「発展」「変化」というよりも、「現状維持」とも言えます。
ですが、この“現状維持”は何よりも難しく、何よりも尊いものだと、僕は感じていたのです。
機械を使わない農業をやってみたら
僕は10年近く前から、「自然農法」というものに取り組み始めました。
「自然農法」と一口に言っても多種多様な方法があるので、ここでは深く言及しませんが、
- 農薬や肥料を使わない
- 機械も使わない
- できるかぎり手作業で栽培する
という方法に、僕はチャレンジしました。
「農薬や肥料を使わない」というのは、有機農業や自然派の農家さんにはよくあることです。
ですが、「機械を使わない」「手作業で栽培する」というのは、ぶっちゃけかなりクレイジーです。
現代社会は、石油などをエネルギー源として機械を動かすことで成り立っていますから。
ですが、10年前の僕は
- 「もし機械を使わなかったどうなるのか?」
- 「石油などエネルギーの無い時代の人たちは、どうやって生きていたのか?」
そんな疑問に駆られ、その“クレイジー”な農業に取り組んだのです。
“当たり前”なことほど貴重!
結果、事業としては大失敗でした……。
ですが、そこから非常に大切なことを学びました。それは、
現代社会で“当たり前”とされている生活は、とてつもなく貴重なものだ
ということです。
ここでいう“当たり前”とはどういうことかというと……
- 帰れる家があって
- 毎日ごはんを食べられて
- トイレに行けて
- お風呂に入ることができて
- 布団で寝られる
という生活のことです。
現代ではさも“当たり前”のように言われていますが、これらは全く当たり前ではありません。
お米を作るためには
例えばですが、お米を食べるためには……
- 田んぼに一つ一つ手で苗を植えねばならない
- その後は無事に育つように、草を抜かねばならない
- 田んぼに水がたまるように、地域の水路を整備せねばならない
- 育ったあとは、手で稲を刈らねばならない
- その後は保存できるように数週間お日さまの下で乾燥させねばならない
- さらのその後は・・・
といったように、無数の肉体労働が必要です。
それらを、昔の人たちは機械が無い中でやっていたわけです。
住む場所も途方もない苦労の結果
というか、田んぼというのも、過去をさかのぼれば未開の土地だったわけで、そこの木々を切り倒し、土地を平らに整地し、石を取り除き、水が溜まるように粘土層を底につくり、その上で良い土だけを置き……といった作業を経て成り立っています。
いえ。田んぼだけではなく、家が建つ場所もそうですよね。
人が住む地域というのは、過去に多くの人たちが途方もない時間と労力をかけて、やっとのことで“人が住めるようにした”のです。
つまり、「家がある」「ご飯が食べられる」「そこで暮らせる」というのは、それだけで とてつもなく貴重ということなのです。
貴重なものが今では“当たり前”になった
そんなことを、「機械を使わない」というクレイジーな農法に取り組んで、僕は学んだのでした。
ですが、機械を頻繁に使えるようになった現代では、「家がある」「ご飯がある」ということに貴重さを感じづらくなりました。
いつの間にか、多くの人が“当たり前”と思うようになってしまいました。
実際、以前は膨大な労力と時間がかかっていた作業も、機械のおかげで短時間でできるようになっています。
手作業であれば数日かかる田植えや稲刈りも、現代の機械を使えば数時間で終わります。
また、我が家の近所には最近、以前は田んぼだったところに住宅が建ち始めているのですが、工事開始からほんの数ヶ月で家が完成しています。
かつては長い時間と苦労の果てにできていた家や食べ物が、今では簡単にできてしまうのです。
それゆえに、以前は「とてつもなく貴重」だったものを、現代の多くの人は“当たり前”と感じるようになっています。
“貴重さ”を忘れてはいけない
あ。でも、だからといって、文明の発達や機械のことを否定しているわけではありませんよ!
機械を使うことで人間が肉体労働から解放され、沢山のモノを短時間で生産できるようになったのは、非常に良いことだと思います。
そのおかげで、飢餓に対する不安や恐怖は無くなり、人々の生活は快適になり、より知的で豊かな生活を営めるようになったのですから。
ただ、忘れてはいけないのは、いま身の回りのあるものの“貴重さ”です。
先ほども言ったように、
- 家や食べ物があること
- 水道・下水・ガスなどのインフラ
- そもそも、その土地が人が住めるように整備されていること
などは、先人が途方もない時間と労力をかけて築いてきたものです。
たしかに今は機械のチカラで簡単に作れるとしても、その苦労と時間を忘れてはいけないと思うのです。
いま身の回りにあるものを“当たり前”と思ってはいけないと思うのです。
“当たり前”のものは決して当たり前にできたものではなく、むしろ“当たり前”に存在しているからこそ、本当に大切なものであること
これを日々、再確認すべきだと考えています。
最後に(言葉よりも実践を)
……と、つらつらと自分の想いを書かせていただきましたが、こういうのって上手く伝わらないんですよね(^^;;
以前にもFacebookなどで こういった話を発信していたのですが、なかなか理解していただけませんでした。
きっと、言葉でどれだけ頑張って表現しても、伝わらないものなのでしょう。
ですから、言葉で表現することではなく、自分自身の生活で実践することで表現していくしかないと考えています。
ですが、ここ数日の大雨と西日本における災害を見るにつけ、“身近のあるものの大切さ”を痛感しました。
(被害にあわれた方々には、一刻も早い復旧とご無事に過ごされますことを、心からお祈り申し上げます)
そして、改めて思うのです。
「いま“当たり前”にある世界を、100年後の未来を生きる子どもたちに伝えたい」
具体的に何をすればいいのか全く見えていませんが、自分の目の前にあるものを大切にして、少しずつ着実に進んでいきたいと思います。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!